2015-09-24

絶望 Désespoir

絶望 Désespoir

絶望が欠けている。
絶望が作り出されなければならない
絶望を眼前にして悶えなければならない
絶望にそうして強いられるときにこそ初めて我々は幾ばくかの可能性を見出すだろう

絶望は我々一人ひとりが自分で作り出さなければならない。「社会」が作り出すものですらない。


「まだちょっと絶望が足りないんじゃないか」
「絶望が拡がって、若い人たちが何にも希望を持てなくなってしまった時に、初めて祈りはじめるんじゃないか」
作家・石牟礼道子


「まだ希望にしがみつこうとしている。(中略)他の人の惨状を見て、何かしなければいけないと思っていたのですが、それより大事なことがその「悶える」だとすれば、まずそれが足りない。堂々と悶えればいい」
 法政大学教授・田中優子



未来のあと 我々にもはや「未来」はない。 フランコ・ベラルディ(ビフォ)

フェリックス・グァタリが「全世界資本システム」と呼んだこのディストビアの壁を目前にして、あくまでもそこに踏みとどまり、そこからいかに脱走線を描出するかという一点に賭けられてきた。
資本主義によって社会全体に押し付けられたあの不断の拡張という展望が「未来」であったとすれば、
もはやいかなる未来もない。我々は未来のあとに何があるのかを想像しなければならない。
「未 来」はいまやたんなる幻想でしかなく、虚無に向かって息を切らして走るよう強いるものでしかないからだ。蓄財という強迫観念を捨てることによってのみ、 我々は人類発展の道を見出し、また、我々を魅了しながらも実現されることのけっしてない「未来」なる地獄から逃れることができるだろう。

科学とテクノロジーが万人の必要に応えた生産の可能性をもたらすのは、全面的な機械化と知識の共有とによって財と生産手段とが平等に分配される場合に限る。

吝嗇(りんしょく)・蓄財精神・経済力といったものはいまや人類の進歩に対する病となっている。この病を治癒するために必要なのは、かつて政治が占めていた地位を治療活動に与えるということだ。
治療や芸術には我々の未来予測を刷新する力があり、それゆえにまた、我々の振る舞い・欲求・可能性を刷新する力もある。

通 常、過去は不変だと考えられている。しかし実際には次のように言えるはずだ。すなわち、過去は、我々の記憶のうちにしか存在しない以上、我々の立ち位置が 変わったり、経験によって我々の記憶までもが変わったりすれば、やはり変化するのだと。反対に未来は避け得ない運命として到来する。未来に備えたり、それ を待ったり、恐れたり、望んだりすることはできる。しかし、無数の存在が望み行動したとしてもなお、到来する未来は避けられない。未来を変えることができ たとしても、それは限りなく小さな周縁的な細部においてのことに過ぎない。にもかかわらず、政治のレトリックは我々にこう告げるのだ、「自分の未来を選び とれ!」と。
未来は我々が自分で選び取ったり自分で決定したりするものではない。未来は待つものだ。ただし、この待機は受動的な状態、純粋な観想 ではない。待機とは、思考を、精神を、そして行動をも準備することだ。我々になし得るのは、未来を変えることではなく、待機のしかたを変えること、運命と して到来する時間をそれでもなお生きるべく新たな待機の方法を作り出すことなのだ。
未来とはただたんに明日以降の日々に我々を待ち構えている時間のことではない。未来とは待機・想像力・準備のことだ。未来とはそうした待機の投写であり、文化・思考・芸術・詩こそが新たな待機の方法を生み出すのだ。



絶望することからしか何も始まらないのではないか 「チッソは私であった」著者・緒方正人


水 俣の認定で、みんなが、金に目が向いていく。「あなたたち患者には損害賠償を要求する権利がある」と言われる。それは、人間であることを置き去りにして、 水俣病患者の認定を権力や加害者、毒を食わせた側に求めるわけで、それが貨幣価値をもってしまう。人間であることよりも、水俣病患者の認定という概念が上 位にきてしまう。だけど苦しんで亡くなった人たちの中に「俺が水俣病患者だ」と主張して死んだ人がどれだけいるんのか。「俺は人間だ」と叫んでみんな死ん でいったのではないかと強く疑問に思うようになって、水俣病闘争のスタイルだけでなく、制度社会というか、それまでの価値観を全部否定してしまった。

人間であることに目覚めた
その前は水俣病患者・被害者家族という、だれも批判しない地点に安住していた。そこからしか問うていなかった。外見上は権力と闘っているようにみえたけど、内実は自分自身と闘っていた。


チッソは私であった
悪徳企業として自分の外に見ているチッソではなくて、「内なるチッソ」。
も うひとつは、運動をやってきて、加害者と被害者が二項対立ではなくて、だれもが両方餅あわさざるを得ない。長い間問う側にいたのが、自らが問われているこ とに気がついた。自分の中で「どんでん返し」が起きた。しかもどんでん返しが起きると、チッソの人たちがとても愛おしくなる。



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